私小説家 嘉村礒多生家 帰郷庵

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私小説家 嘉村礒多とは

 明治三十(1897)年十二月十五日、現在の山口市仁保上郷に父若松、母スキの長男として生まれました。嘉村家は上郷屈指の地主でしたが三代も養子が続き、若松の代にようやく実子を授かった上に男の子でしたので一家の喜びはたいへんなものでした。

 当然のように礒多は家では何事も思うままでしたが、もの心つく頃から生まれつきの色黒に悩み、友だちから「黒礒」と呼ばれるのをひどく苦にしました。

 明治四十四(1911)年、めでたく県立山口中学に入学しましたが悩み多い彼は卒業を待たずに退学します。失意の中で文学に関心を抱く一方、哲学や宗教へも関心を深めていきます。退学当初は救いを求めて秋吉のキリスト信者本間俊平のもとに通いますが馴染めず、地元の信行寺で桃林皆遵(ももばやしかいじゅん)の導きを熱心に受け、さらに当時大正の親鸞と称された近角常観(ちかずみじょうかん)の求道会館(東京本郷)で聞法に接するなど、親鸞の教えは礒多の人生、文学に大きく影響しました。

 大正六(1917)年、藤本静子と結婚。翌年父となりますが、年上の妻との不和が絶えず大正十四(1925)年四月、遂に妻子を置き去り、勤め先の小川チトセと出奔上京。

 辛うじて職を得た文芸誌『不同調』に発表した「業苦(ごうく)」は、その憂苦の生活を描き、罪業の深さを告白した作品ですが、まさに業苦は礒多の生涯を象徴するものであったと言えましょう。

 〈觸(ふ)ればう人毎へ闇をおくり、影を投げ、傷め損ずる悪性さらにやめ難い自分〉と「曇り日」に述べていますがそうした自分を語らずにはいられない切実が胸を打ちます。

 昭和八(1933)年礒多は病いに克てず35歳の生涯を閉じました。〈異郷の土にこの骨を埋めてはならない〉との切なる願い通り父祖の地に永遠の安らぎを得ることができたのでした。

 

嘉村礒多の作品集

  • 『崖の下』(新潮社、1930.4)
  • 『途上』(江川書房、1932.2)
  • 『一日』(江川書房、1933.11)
  • 『嘉村礒多全集』(白水社、1934)
  • 『嘉村礒多全集』(南雲堂桜楓社、1964〜1965)

青空文庫では以下の作品が公開されています。嘉村礒多:作家別作品リスト

  • 足相撲(旧字旧仮名、作品ID:1337)
  • 崖の下(旧字旧仮名、作品ID:1336)
  • 業苦(旧字旧仮名、作品ID:1335)
  • 途上(新字旧仮名、作品ID:49655)
  • 滑川畔にて(旧字旧仮名、作品ID:4661)